「淵に立つ」寸評 2
2016年 10月 19日
昨日のつづき。
プロテスタントの嫁は、しだいに殺人罪で服役していたヤサカを受け入れていく。
やがて恋愛の感情が芽生え不倫関係に。夫のトシオはそれを黙認していたのだ。
なぜなら殺人の共犯を、ヤサカは一切供述しなかった。その負い目がある。不貞をも見逃す関係。
トシオは刑務所行きを免れ、先代から町工場を継ぎ、結婚して家族ができたのだ。
ヤサカに対して頭があがらない。なすがまま。ボクはこのオッサンに1番人間っぽさを感じた。
娘は途中、公園で頭から血を流し意識不明の重体に。現場にヤサカがいる。トシオがそれを発見。
事態の説明を問い詰めるも、ヤサカは逃げるようにプッツリと姿を消した。
このことによるダメージで娘は重度の障害者に。物語の後半部分は8年後から。
車イスやベッドから動けず、口すら自力で閉じることのできない状態。変わり果てた姿。
ボクにはこの娘が十字架にはりつけにされたキリストとだぶって見えてしまった。
ノイローゼの母は過剰に寄り添いつづけ、父は半分死んでいるような娘をみて自分を取り戻した(!)。
娘=善(神)、ヤサカ=悪(サタン)、罪と罰=夫婦、トシオ=宣教師、嫁(母)=信者。
ボクの頭の中にこんな図式が浮かび上がった。今朝8時、ターザン山本さんとメールのやりとり。
このことを短く伝えると珍しく即レスがある。「大事なことが抜けてますよぉぉぉ!」
ん?
なんだろう?
「無垢の象徴、八坂の息子!『聖書』の中のヨブ記。何も悪くないのに酷い目にあう人です」
そうだ、忘れていた。彼は罪もなにもないのに、ラストとんでもないことになった。
なんでも今夜、プライベートで「淵に立つ」をテーマに集まるそうだ。いいな~。
伊豆でこの映画をみて話ができる人はまずいない。だって伊豆半島は映画館すらないからね。
というわけで「淵に立つ」は、観賞後の解釈をひっくるめて初めて自己成立する映画である。
人間は存在そのものが不条理だということか。昨日も書いたが、浅野忠信がとてもいいです。
平馬
by h72ogn
| 2016-10-19 17:14